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老松 当主・有斐斎弘道館 理事 太田達さん(前編) 「京のつくり手語り」vol.2

老松 当主・有斐斎弘道館 理事 太田達さん(前編) 「京のつくり手語り」vol.2

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「有職菓子御調進所老松」の当主、有斐斎弘道館の理事、工学博士にして茶人。ユニークな一期一会の茶会を催す一方で、モーションキャプチャを用いた「茶道点前の動作解析」で博士号を取得。さらには和歌や食マネジメントなど幅広い分野にわたり大学で教鞭をとる太田達さん。菓子文化や祭事から経営論、着物文化やご自身の意外な経歴まで様々な話を伺いました。

この人の「知」の泉は、どこまで深く広いのだろう。
インタビュー中にあっちへ飛びこっちへ飛びする話はどれもが強烈ながら、なぜだか全てが地中で繋がっているような不思議な安心感があるのです。

はちゃめちゃだけれども、真面目。
大胆だけれども、シャイ。

一見すると相反するものを、難なく包括する現代の知恵泉・太田達さんを訪ねて丸太町にある有斐斎弘道館にやってきました。

茶会は一期一会のインスタレーション

取材当日のしつらい

有斐斎弘道館の原点である弘道館は江戸中期の儒者・皆川淇園が建設した学問所。
2009年に跡地で起こったマンション建築の動きに待ったをかけたのが太田さんをはじめとする文化人の皆さんによる保存運動です。

荒れ果てていた屋敷や庭の整備を行い、現在は茶道を中心に和歌や能に関する講座を「ちゃかぽん」と称して開催しています。ちゃかぽんとは幕末の大老・井伊直弼のニックネームで、彼が愛した茶の湯、和歌、鼓のポンと鳴る音を合わせた言葉。

ベッカムのために作ったという茶碗

取材に訪れたのはまだ寒さの厳しい1月の下旬。
まぁ、まずは一服どうぞ、と老松製の椿もちと抹茶をいただきました。

「そのクマちゃんがサッカーしてる茶碗は、ベルリンのW杯の時に、ブランデンブルク門のところで僕が一客一亭をすることになったデヴィッド・ベッカムのために作ったやつ。そっちは、弘道館の名物みたいなもので、秀吉が使った茶碗で、もう一つはテニスの王子様フェデラーがお茶していった時の茶碗ですわ」と、太田さん。

太田達さん

どうしてまたそんな大層なお茶碗を我々に…!と驚愕していると、
「え?だって喜んでくれはるかと思って」と、さらり。

誰某が作ったお茶碗、という価値ももちろんあるのでしょうけれど、それぞれのお茶碗に「誰某が飲んだ」という履歴がつくのも楽しむことができるカルチャーなのですね。

フランスの画家に描いてもらったミノタウルスの水指

茶事とは毎回、その日のお客さんのための掛け軸、道具、お花、お菓子、着物などを用意するもの。お茶会は「4時間のドラマ」であり、「一期一会のインスタレーション」であると太田さんは断言します。

インスタレーションとはインストールを語源とし、「設置」することを意味するアート用語。屋内外を問わず空間全体を体験できる展示の手法やそうした芸術作品をさすことが多く、こと茶会というインスタレーションに必要なのは、見立ての力であり、太田さんは「街のいたるところが茶室に見える僕は、見立てがうまいのかも」と世界中にファンを持つ理由を分析。

何か一つのジャンルだけでは世界で勝つのは難しい。でもお茶なら。

「例えばピアノ。幼少期は天才と言われていても、大きくなるにつれ、もっと上手い人がゴロゴロ出てくるし、それこそ世界で活躍できる人なんて一握りでしょう。でもお茶なら、僕が好きないろんな要素が組み合わさってるから、その組み合わせで勝負できるんです」

もちろんそれは、組み合わせる要素の一つ一つが大学で教鞭をとるレベルの太田さんだからこそという気もするのですが。

物理と化学に文学をのせて

「京都は世界有数の菓子の産地。生産量が多くて、職人がいっぱいいて、その地域を代表する菓子がある都市を他に3つ挙げるとしたら、どこでしょう?」

突然始まる菓子文化の授業。

「パリ!」正解。
「ウィーン?」ピンポン!
「もう一つは香港」だそうです。

「では、京都を含めて4つの街に共通するのは?」

うーーーーーん…と悩む我々3人に

「住んでる奴の性格が悪いねん(笑)!」とおどける太田さん。

お茶目な表情の太田さん

そんな4都市を「生活に要らないものを食べる街」と評されるので、では太田さんにとって京菓子とは、という疑問を投げかけると、

「物理と化学に文学(和歌)をのせて、約50gの立体造形に仕立てたもの」

という、本質剥き出しのお答えが返ってきました。

「僕は理系人間だから、ナノ理論とかで考えてしまうのね。でも、お客さんに喜ばれるお菓子を作ろうと思ったらそれだけでは駄目で、コピーライティング的な視点が要るぞと思った。どんな立場にも年齢にもなれる視点ね。和歌はその糸口なんじゃないかと思う。」

太田さんの菓子見本帖

これまで作ってきた茶会のお菓子は数え切れないほどあるが、この道筋さえ外さなければ、本質を見失うことはないのだそう。

「お菓子が作れたら、人生は結構なんでもうまいこといきますよ」

「THE 京都」やったのは小学校まで

幼い頃をどう過ごせば、これほどまで教養と遊び心に溢れた人物が形成されるのか。
幼少期について伺うと、意外な答えが返ってきました。

太田さん

「京都で商売をしようと思ったら、『京都コミュニティ』いうんですかね、小中高大とエエとこの私立とかで出会う横の繋がりみたいなのがあった方がいいんでしょうね。でも、僕は小学校までしかそういう環境じゃなかったから、いざ家業を継ぐってなった時にそのコミュニティを持ってなかったんです」

自分で言うのもアレだけど、と前置きしつつ「僕、小学校の3・4年生くらいまではすごい家に住んでた」と振り返る太田さん。

子ども専用の女中さんや運転手付きの車があり、馬も何十頭もいたというだけで驚いてはいけません。家の敷地内に散髪屋さんやお寿司屋さんがあり、当時の横綱4人とお風呂に入ったり、ルイ・アームストロングを招いて演奏会を開いたり、という異次元ぶり。幼心にも「これは誰に言っても信じてもらえないだろうな」と思い、嘘つき呼ばわりされたくないので、小学校では一切自慢をしなかったそうです。

太田さん

祖父が亡くなった頃から次第に家業が傾きはじめ、車の台数も運転手も減り、とうとう父親が車を自分で運転するようになって「これは公立に進学しなくては」と気づいた太田少年は、中高は公立へ、大学は島根大学に進学します。

「子どもの頃から着物は好きでしたね。お金がなくなっても、本と着物だけはたくさん残ってたんです」

修士課程の時に、番頭さんが「帰ってきてください」と迎えにきたことで、京都に帰還。
いよいよ家業の道へ…と思いきや、

「いきなり社長なんて無理ですやんか。僕は『職業選択の自由』が無い人やったから、出れるうちに外に出ておきたかったという想いもあったかもしれない。そやから、大好きな呉服に携われる会社に就職しようと思って、丸紅株式会社京都支店(現・京都丸紅株式会社)に入ったんです」

と、まさかの展開に。
呉服問屋の新人営業マンと老松の後継ぎの二足のわらじ生活が幕を開けるのです。

後編(5月公開予定)へつづく

撮影/スタジオヒサフジ

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