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働くことは生きること 〜小説の中の着物〜 朝井まかて『残り者』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第三十一夜

働くことは生きること 〜小説の中の着物〜 朝井まかて『残り者』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第三十一夜

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小説を読んでいて、自然と脳裏にその映像が浮かぶような描写に触れると、登場人物がよりリアルな肉付きを持って存在し、生き生きと動き出す。今宵の一冊は、朝井まかて著『残り者』。江戸城大奥、その最後の1日。誇りを持って己の仕事に邁進することを許された大切な場が失われようとするその日、5人の女が城内に残った。それぞれの務めを果たすため、そして、それぞれのその先を生きるために。

2023.10.29

まなぶ

“かたい”着物で護るものは 〜小説の中の着物〜 立原正秋『舞の家』「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」第三十夜

今宵の一冊
『残り者』

朝井まかて『残り者』双葉文庫

朝井まかて『残り者』双葉文庫

 御上段之間ごじょうだんのまの中央に坐している天璋院が、静かに立ち上がった。
 畏れ入りながらもりつはおとがいを上げ、主の姿を見上げる。と、膝の上で重ねた手の指がふいに動きそうになった。
 天璋院が召した上掛うちかけは、呉服之間に奉公するりつが縫い上げたものだった。銀糸や色糸で葵と七宝文様を配した黒綸子地で、りつの手は綸子特有の粘りけと膨らみをまだはっきりと憶えている。
 間着は花紋を織り出した白綸子の小袖を召しているので、白の上に黒、そして袖口と裾ふきに差した群青色が彩りとなって、丈も貫目かんめも堂々たる威容に涼やかさが吹く。

朝井まかて『残り者』双葉文庫

今宵の一冊は、朝井まかて著『残り者』。

舞台は、江戸城大奥。
江戸幕府が瓦解し、城の明け渡しが決まった1868年4月10日、そのたった1日を追った物語です。

語呂良く、俗に“大奥3千人”などと言われ、こう聞くと煌びやかに着飾って将軍の寵を争う女たちがそれほどひしめいていたかのように錯覚しますが、さすがにそんなわけはなく。これは下働きまで含めて、大奥内で働いている女性の数がもっとも多かったときのことのようです。

将軍のお手が付く可能性があるのは、大奥にいる女性の中でも当然身分の高いほんの数名。そのひと握りの主(本作中においては、13代将軍家定の正室である天璋院篤姫、14代将軍家茂の正室である静寛院宮〈和宮〉など)のもと、さまざまに細分化された職制が確立されており、武家の子女のみならず行儀見習いのため短期間だけ勤める裕福な町人の娘もいれば、料理番や下働きには町人の中でも身分の低い女性が勤めることもあったようです。そして、何らかの事情で俗世から離れる必要のある女性も多くいたのだとか(いわゆる“駆け込み寺”的な役割もあったのですね)。

現代で言えば、社員千人を超える大企業の社員であっても、社長と直接接する機会のある秘書のような立場もあれば、所属が社長とは直接会う機会のないセクションであったり、その会社の食堂や売店で働いていたり……といった感じでしょうか。

それぞれのセクションのトップにも当然階級があり、そのトップに仕えるそれぞれの奥女中たちにもやはりヒエラルキーが存在する。人が多く働く組織であれば至極当然のことなのですが、その様相も現代で言うキャリア、ノンキャリア(奥女中として大奥に上がる初手から、ある程度出世を見込める階級とそうではない階級がある)のような印象で、なんだか親近感を覚えます。

そんな中、主である天璋院篤姫の御召し物を一手に引き受ける「呉服之間」で働くりつ、天璋院好みの味噌壺を命懸けで守り抜く「御仲居」のお蛸。町人の身分ながら、闇雲に出世をと目論む「御三之間」のちか、天璋院のそば近く仕える高位の身分であり、その凛とした佇まいや驕り高ぶることのない気さくな人柄で人気のある「御中臈」のふき。そして、りつと同じく「呉服之間」務め(ただし、京から来た第14代将軍家茂の正室和宮付き)のもみぢ。

この5人の”残り者”がともに過ごすひと晩の物語。

こうして軽く登場人物のご紹介をしただけでも、何やら現代のオフィスを舞台にしたお仕事ドラマのような気配が漂いますね。

出世コース爆進の花形部署とは言えないけれど、その技能を見込んで配属された部署で誇りを持って働く主人公、ノンキャリだけれど働き次第で出世の可能性のある部署で、何がなんでものしあがろうとする若手社員。仕事ができて人気のある颯爽とした上司に、朴訥なお人好し、なのに意外と情報通な食堂のおばさま。そして関西から配属されてきた、ちょっとひねくれ者のライバルの同僚……そんなところでしょうか。

本作はストーリー展開がある種謎を追う形になっており、まだ読んでいない方のためにもネタバレは避けたいので詳しくは語れませんが、何せ主人公が呉服之間務めのりつですから、着物に対する描写ーそれぞれの立場や職分における着こなしの違いや仕立てなどーが多いのはもちろんのこと、それだけではなく調度品やその扱い、食に関するしきたりなど、それぞれが担当する専門分野の描写も多く、とても読み応えがあります。

からりと明るく、読んでいて心地の良い文体、そして小気味の良いテンポで物語が進むので、惹き込まれて一気に読み進めてしまうであろうこと請け合いです。

 御針……御針の始末を、ちゃんとしただろうか。
 今朝の足取りを思い返した。長局からまっすぐ呉服之間に入り、前の晩にまとめた御道具箱や反物を改めてから部屋を出た。その時、振り返ってもう一度、確かめたはずだった。針や鋏を扱う呉服之間では道具の片づけがいかほど重要であるか、身に沁みている。

朝井まかて『残り者』双葉文庫

「ゆるゆると急げ」と天璋院から滞りない退去を言い渡されたにも関わらず、この思いに駆られ思わず呉服之間に戻るりつの姿に、なんだか身につまされるものが……(笑)。

今宵の一冊より
〜天璋院〜

黒地に銀糸で華七宝文が刺繍された御召の訪問着。

作中で天璋院が纏う打掛に七宝とともに織り出された葵は、徳川家の紋(三ツ葉葵)にも使用されています。よく知られた「この紋どころが目に入らぬか!」ってヤツですね。

山野草の一種であるフタバアオイの葉をモデルとする葵文様。その”ハート形”にしか見えない特徴的な形はモダンに図案化されたような印象ですが、実際の葉にもこんなふうなくっきりとした葉脈があります。

実は結構写実的であるにも関わらず図案化されたモチーフ、といったイメージが強いのは、なかなか面白い現象だなと思います。自然の造形の不可思議さゆえとも言えるのではないでしょうか。

特に季節を限定しない柄ですが、5月の葵祭などに絡めて季節の柄としても。

柔らかな鳥の子色に焦茶の配色が新鮮な印象

小物:スタイリスト私物

造形が特徴的な分、大きくなるとよりそのポップさというかモダンさというかが強く感じられるのが、この葵という柄。柔らかな鳥の子色に焦茶の配色が新鮮な印象を与えます。

作中では袖口と裾にあしらわれた群青色を帯揚げに差し、焦茶、白茶、群青と、江戸好みな配色の帯締めを添えて。

深い濃紺の地に、紅葉を思わせる艶やかな配色で蔦の葉と小菊が染められた大柄の小紋。
その色合いも相まって、少々季節限定感の強い柄に思えます。

袷の羽織は着る季節がある程度絞られますから、こういう柄をあえて羽織にしてしまうのもとてもおしゃれではないでしょうか。

シックな地色ながら、柄の大きさと色遣いでかなり華やかな印象のこの小紋。

こういった、着物にはちょっと派手かなと思うような色柄も羽織にするとしっくりくることも多く、着物として着るより意外と着こなしのバリエーションが広がることも。

今宵の一冊より
〜ふき〜

 ふきが衣擦れの音もなく立ち上がり、身を翻した。
 立ち姿もまた見事だ。腰から上が深い赤を含んだ紫、下が浅葱色と上下の染め分けになった珍しい上掛うちかけで、裾と袖口だけが白いぼかし染めだ。腰から裾にかけては勇壮な放れ馬と陣太鼓が染めで描かれた意匠で、これほどの逸品はおそらく天璋院からの拝領物であろうと思われた。

〜中略〜

白絖しろぬめ地に鱗文様と唐花の格子柄どすな。腰のところで切り替えがある。まあ、これも滅多とお目にかかれぬ小袖どすわ。ちょっと、能装束の風情がある」

朝井まかて『残り者』双葉文庫

この描写でも感じられる通り、この個性的な装いを着こなすふきは、そのギャップのある捌けた人柄も相まってとても魅力的な女性。

ケチのつけようのない憧れの上司……かと思いきや、そんな彼女にもやはり悩みが。物語の中で明かされる上に立つものの苦悩も、やはり現代に生きる女性たちと何ら変わることのないもの。

部下を持つ、あるいは持った経験のある女性であれば、深く頷くに違いありません。

着物: 染訪問着 「千筋に裾暈し」
帯:創作袋帯 「馬蹄唐花紋」
小物:スタイリスト私物

薄い鳩羽鼠から深紫の裾濃に、肩と裾に千筋を染め重ねた紬縮緬の訪問着。趣味性の強い着物なので、染め名古屋帯などのカジュアルな帯から軽めの袋帯まで、さまざまに帯合わせが楽しめそうです。

ふきが身につけている“腰のところで切り替え”がある着物は、おそらく“熨斗目(取り)”と呼ばれる柄付けでしょう。江戸時代の武家の礼装である小袖に見られるこの“熨斗目(取り)”は、本来は腰のところに横一文字に別の柄を付けたものを指しましたが(肩と裾が同じ色柄になる)、現代では絵羽で見た際に横段状に配された柄付けを熨斗目と呼ぶことが多い(肩と裾が同じではない場合も)ですね。

したがって、この着物も熨斗目(取り)の着物。

粋すぎず、程良く個性的で、無地感覚で帯合わせを楽しめる一枚です。

小物は洋のニュアンスのあるものを

小物:スタイリスト私物

作中では“放れ馬と陣太鼓”とあり相当に勇ましい柄だったようですが、ここでは同じ馬モチーフでも、洋のニュアンスのあるものを。

大きな馬蹄の周囲に軽やかに駆ける馬たちがあしらわれ、その背に重なる唐草の葉が羽根のようで、まるでペガサスのようにも思えます。

なんだか御伽話のような、でも決して子どもっぽくはなく大人の女性が身に付けるにふさわしい上質な世界観。きりりと凛々しいふきのイメージに重なります。

陣太鼓に代わる武具として、矢羽柄が組み出された帯締めを。帯の銀糸と相まって、クールな華やぎが増す小物遣いです。

作中のふきの打掛は帯から上が紫、下が浅葱色。ということで、上下逆ではありますが綺麗な浅葱色の羽織を重ねて。

帯に使われた鮮やかな水色と響き合い、その澄んだ色がいっそう際立ちます。

この羽織の真骨頂は、その後ろ姿。

この羽織の真骨頂は、その後ろ姿。

肩から背にかけて描かれた、生命力に溢れた伸びやかな唐草に目を奪われます。

無地ですんと澄ました印象の前姿と、後ろから見た大胆な姿とのギャップが、本作で描かれるふきのイメージにぴったりだなと。

今宵の一冊より
〜りつ〜

「りつ殿の上掛うちかけ木蘭色もくらんじき地に赤の雲文様やから、何やろう、そうや、いっそ千歳緑のような濃色の襷がよろしおすな。長いものを使えるようには見えませんよって、打物うちものはさしずめ物差しか」
「物差しでは、まったく闘えませぬよ、もみぢ殿。せめて鋏なりとも持たせてくださりませ」
 りつは思わず苦笑する。

朝井まかて『残り者』双葉文庫

呉服之間を己の生きる場所と定め、その道に邁進するりつ。一見大人しそうではあるけれど、ただひたすら、誠実にまっすぐに己の仕事に向き合い、日々の務めに励むうちに静かに揺るぎない自信とプライドを深めていくその姿は、ストーリーが進むにつれそのつよさを発揮します。

仕事に対しては職人肌とも思えるりつですが、いざというときにはやはり武家の娘。ふきと一緒に、当然のように下の階級のものを守ろうとするその在り方には、当時の武家階級に育ったものが持ち合わせていたであろう“ノブレス・オブリージュ”の精神を垣間見る思いでした(この言葉はちょうど同時代のヨーロッパにおいて生まれたものではあるけれど、身分制度があった時代の日本にも同じ概念は存在していたと思います。残念ながら、現代日本には根付いているとは言い難いですが……)。

雲取りの中にさまざまな有職文様を染めた、灰桜色の紬の訪問着。

湧き上がる様子から上昇や隆盛の意味もあり、瑞雲としておめでたい意味もある雲文様は、季節を問わず使えます。その上品な、落ち着いた中にもなんとも言えない趣のある灰桜色は、間違いなく桜の時期にも大活躍しそう。

作中でもみぢが襷の色に勧めた千歳緑をわずかに淡くしたような、そんな微妙な色が美しい縮緬地に、りつの仕事道具である籠に入った糸巻きや杼といった裁縫道具が染められた紅型の帯を合わせて。

このまま、ひな祭りのコンセプトにもなりそうな組み合わせ。

ちなみに、トルソーの背後に見えているのは私がインテリアとして使っているアンティークの裁ち台。古いものなのでかなり歪みも出てしまっているのですが、お気に入りです。

脇からのぞくて先の柄が目を惹きます。

木蘭色もくらんじきの地色に赤の雲取り、という配色を小物で添えて。グリーン系の帯に赤の小物、ちょうど今くらいから、クリスマスシーズンの小物遣いとしても。

自分からは見えませんが、脇からのぞく”て先”の柄が目を惹きます。

羽織よりも、ちょっと打掛の風情を感じる総刺繍の道中着。それこそ、地色は木蘭色もくらんじき

道中着: 手刺繍道中着 「道長取麻の葉宝相華紋」
小物:スタイリスト私物

黒、深紫と並んで、3大オールマイティカラーのカラシ系。道中着は特にすっぽりと覆ってしまいますから、この3色に関しては合わない着物はまずないと言っても過言ではないと思います。

多色遣いでありながら上品な配色で、びっしりと入った刺繍がとても華やか。
帯を隠してしまうのがつまらない……という声も多いコートスタイルですが、こんなコートなら逆に脱ぎたくなくなるかもしれません。

道中着の、裾つぼまりのこの後ろ姿のシルエットが、またなんとも言えない風情がありますよね。

道行などのコートはどちらかというと“着る”という感じなのですが、道中着は“纏う”感覚。あまりコートが好きではない私でも、人が着ている姿を見てあぁいいなと思うのは、そのせいかもしれません。

冬の街中で、寒い中でも縮こまらず背筋がすっと伸びた道中着姿の方を見かけると、あぁ美しいなーと思います。

胴回りは何枚もの生地が重なっているため暖かくても、首と手首と足首が外に出ている着物は、意外と寒さに弱い。暑さ対策と同じく防寒もまた、工夫を凝らしている方が多いのではないでしょうか。

特に縦のラインを作れる羽織と違ってすっぽりと覆ってしまうコートスタイルだと、首・手首・足首、この3ヶ所の細い部分を完全に隠してしまったら全体がなんだかだるまさんのようなぼてっとしたシルエットになりがち。なので、少しでもすっきりと見せたい場合は、この3ヶ所の“細さ”を残すことが重要なポイントになります。

例えば手袋は、なるべく細身で指先が出るようなタイプのものに。肘上まであるアームウォーマータイプだと、着脱もしやすく便利です。

足元は、ネル裏の足袋や足袋の下に履くヒートテックのソックスなどで内側から暖かく。膝下丈でも肌色のものなら、階段などでちらりと見えても気になりません。足袋に草履って、洋服で言えば短いソックスにサンダルみたいなものなので、ブーツなどに比べたら防寒要素はほぼ皆無。お茶席など、足袋だけで長時間過ごさなくてはいけない場合は特に対策しておくと安心です。

そして残るは首周り。
できれば、ストールやマフラーでぐるぐる巻きにせず肩にかけるようにすると綺麗です(……と言っても、これは痩せ我慢しろと言っているのと同じようなものなので、その辺は個人のお好みでどうぞ 笑)。しっかり巻きたい場合は、衿元に緩やかに巻けて寒気をしっかり防いでくれ、なんとなくVラインというか……顔元に縦長のシルエットが作れるようなストールを選ぶと良いですね。

ヒートテックの肌着を着込んだり、背中や下腹にカイロを貼ったりというのも王道の防寒対策ですが、室内などで暑くなったときに脱いだり外したりができないのはちょっと困る。撮影時における寒さ対策も、すぐ暖かく、そして不要な場合に素早く外せることが重要なので、上記のような着脱しやすいものが多くなります。

アームウォーマーの中に小さなカイロを入れておくのも良い方法。ちょうど手首のところにあたるようにしておくと、血液の流れで体全体が温まってきますし、外すのも簡単。出ている指先が冷えてしまったら、ちょっとずらして指先だけ温めたりもできますし。長めのアームウォーマーを少し折り返して重なる部分にカイロを挟んで使うと、低温やけどの心配もありません。

あ、そう言えば。

ある極寒の撮影の際、足裏に貼るタイプのカイロを足袋の裏に貼って使用していて草履の台が焦げたことがあるので、みなさまもどうぞご注意を……

針の話

――この小袖は不思議と着心地が良い。誰が縫うたのか。
 天璋院からあの御褒めの言葉を賜って、一年ほどが経っていた。縫うものによってなぜ着心地が違うのか、自分の縫い方のどこが優れているのか、知りたくてたまらなかった。己の才が奈辺にあるのかを探る時間は、まるで宝探しのような楽しさに満ちていた。
 着物の縫い方はそれぞれで、人によってまるで異なるものである。むろん、江戸と京とでも縫い方は違う。同じ師匠に習ったのであれば同じ縫い方になることもあろうが、りつは我流だった。

〜中略〜

そして、もしかしたら縫い手によって糸目が異なるからではないかと気がついたのが、あの日だった。先輩や朋輩、後輩らの針の運び方を思い起こしながら、己の糸目を確かめる。
 そうだ、たぶん私の糸目はきつすぎず、緩すぎない。

朝井まかて『残り者』双葉文庫

このように誇りを持って己の仕事に邁進するりつですが、この抜粋部分の後(ネタバレ回避のため詳細は避けますが)ちょっと想像するだけで血の気が引き心臓が痛くなるようなシーンに続くので、ぜひ本作を読んでいただきたいと思います。

現代のお仕立てでも、やはり着心地の良し悪しや着姿の美しさは仕立てによる部分が大きいと思います。仕立ての良くないものだとあっという間に型崩れしてしまいますし、どうも変なところにツレたようなシワがよるんだよね……ということも。

本作を読んで、思い出したのは10年以上も前のこと。

確か今頃の季節だったかと思います(なぜ覚えているかというと、空気が乾燥して静電気がすごかったから)。その日は夜に食事の約束をしており、その前に銀座のお店を数軒回ってから食事に行こうと考えていました。着心地を試してみようと絹の裾除けを仕立てたばかりだったので、それを付けて出掛けましたが、なんだか歩くたびに裾の方でぱちっぱちっと音がするんですよね。ぱちぱちどころか、たまにバチンッとすごい音もしたりして(結構な痛みとともに)。んん?絹の裾避けなら静電気が起きないだろうと思ったのにこれは……?と思いながらも、そのまま電車に乗りました。

電車に乗っている間はさほどでもなかったので、あまり気に留めずにいましたが、電車を降りて歩きはじめたらまたすごい音がし始める。さすがにおかしいと思いつつも、ここまで来てしまったし、お店の担当者にアポイントも入れてあるし……となかなかに壮絶な痛み(例えて言うなら、細い鞭でずっとピシピシ打たれているような……いや、打たれたことはないんですが 笑)を我慢しながら歩いて、まず1件目のお店でのセレクトを終え次のお店に。銀座の、特に8丁目界隈は行きつけのお店が集中しているため、3件めまでは何とかがんばれました。冷や汗をかきながら。

その3件めで、事件が起きました。

仲良くしているお店だったので「いやーなんか今日静電気が異常にすごくて……」なんて言いながら裾を軽く持ち上げた瞬間、ぶちんっっというひときわ大きな音とともに吹き出したのです。右の向こう脛から。結構な量の鮮血が。

改めて思い出しても、笑えるくらいシュールな図でした。漫画のようで。

ただ、幸いだったのが被害を被ったのは私の足袋だけで(見事に真っ赤に染まりましたが、草履の鼻緒も奇跡的に無事でした。右足の足袋が全部吸ってくれた)、着物にも襦袢にも血はかからず、そして何よりもそのお店の商品などにかからなかったこと。自分より、そちらの方が怖くて血の気が引きましたよね……

いったい何が起こったのか、一瞬お店の人も私も呆然として顔を見合わせていましたが、これが仕立てたばかりの裾除けの中に残されていた針の仕業だったんですね。後でわかったことなのですが。

とりあえず、脛の応急処置だけさせてもらい、持っていた替えの足袋に履き替え、ついでに裾除けと襦袢の相性が悪いのか?と裾除けもとってしまうことに。そうしたら嘘のようにおさまったので、やはり原因はそれだったかーと納得しながら次のお店に。しかしまだ帯電していたのか、音はおさまったもののひと足進むごとにビリビリとした痛みがひどく、次に行く予定のお店(6丁目)までのたった1ブロック程度をタクシーに乗る羽目に……

時間が経つにつれ落ち着いたため、そのまま予定は続行しましたが、夜自宅にかえって外した裾除けをチェックしていたところ、裾の折り返し部分に針を発見。まち針だったため抜けては来ず、刺さらなくてよかった――と思いましたが(まぁ流血はしましたけどね)こんなこともあるんだなと。帯電した尖った金属で、歩きながらビシバシ叩かれているんだからそりゃ痛いわな……と、改めて納得。向こう脛、みみず腫れみたいになってましたし(笑)。

どれほどに注意してもしすぎることはない、針の扱いには気をつけなければ……と、身を以て知ることのできた出来事でした。

季節のコーディネート
〜雪持ち銀杏〜

柔らかい生成り地に、控えめな金銀で織り出された“雪持ち銀杏”。舞う銀杏の葉に雪輪が重なり、移り変わる季節が繊細に表された魅力的なひと筋です。

抑制された上品な柄ゆきながら、唐織ならではの存在感。小紋や御召、江戸小紋、付下げ、軽めの訪問着などに幅広く対応し、格上げしてくれます。

本作に登場する、りつたち4人の主人である天璋院。
薩摩出身の彼女にちなみ、“薩摩杉”と銘打たれた江戸小紋に合わせました。縫いのひとつ紋が入っているので、ちょうど今頃のお茶会や年末のパーティーなどフォーマルな席にもぴったり。

程良く個性的な、浮かび上がるような杢目風の柄はクラシカルにも遊び感覚にも楽しめそうです。

白椿が描かれた黒骨の扇子を添えて。

小物:スタイリスト私物

控えめな艶と金糸遣いが、抑えた意匠をより際立たせる白の小物に、白椿が描かれた黒骨の扇子を添えて。

花びらが散らず、花ごとぽとりと落ちることから首が落ちるようだと武家には忌避されたと言われる椿ですが、殺風景な冬景色の中に凛と咲くこの花の律された美しさは、大奥の最後のときに臨んだ武家の女たちー天璋院、ふき、りつーの佇まいに重なる気がして。

夏のものと思われがちですが、暖房や人いきれで室内が暑くなることが多いので、真冬でも意外と出番のある扇子。

仮にフォーマルでも、格式をさほど求められないパーティーなどの席ならば、儀式用の末広(面が金銀のもの)ではなく、こういった日常用の扇子を携えておくと仰ぐのにも使えて便利です。

 道具箱の一つを棚から下ろして、中を見てみる。種々の御針はもちろん、裁ち鋏に小鋏、指貫の類も使いやすく整っている。かような時だというのに、我知らず胸が躍る。道具箱の中の美しさは、持ち主の腕の証なのだ。御針に糸を通したまま針山に刺していたり、小鋏と指貫をしじゅう探しているような者は手抜かりが多く、仕事も遅い。

朝井まかて『残り者』双葉文庫

この場において自分が役に立っている、必要とされているという自負と自らの職能、技術で自らの身を養っていくことができる幸せ。それらを失いたくない、避けられないならばせめてその最期を見届けたいと願うりつの気持ち。

本作を読んで何よりも印象に残ったのが、誇りを持って"己の仕事(当然家事や育児も含む)と思い極めたもの"に邁進することができる状況が、その人生においてどれほどの喜びと幸せをもたらすか、ということでした。そして、それを理不尽に奪われるのが戦争というものなのだということも合わせて。

ここで抜粋した部分は、共感と自分への戒め。
気を引き締め直し、心新たに(己の仕事)に臨みたいと思います。

さて次回、第三十二夜は。

足袋の話と、船場の“ぼん”のダンディズム。

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「徒然雨夜話ーつれづれ、あめのよばなしー」連載30回記念!秋月洋子さんプロデュース『誰が袖 -tagasode-』より、着物生地を用いた”スキヤクラッチ”をプレゼント!

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『誰が袖 -tagasode-』

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