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祇園の人気芸妓をやめてニューヨークへ 「今井茜 着ものがたり」

ニューヨークへ飛び立つ 「今井茜 着ものがたり ―京都・ニューヨーク・東京」 vol.4

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着付けレッスン、ヘアレクチャー、着物のデザイン企画と活躍の幅を広げる今井茜さん。 日舞との出会いから京都祇園の人気芸妓としての生活、単身渡米したニューヨークでの着付け教室開講から帰国し現在に至るまで… 「心身ともに美しい女性」になるまでの歩みを紐といてまいります。

「華やかな祇園のお座敷で貴重な経験を積み重ねていた茜先生が、芸妓さんを辞める道を考えたきっかけはなんでしたか?」

仕込みのときも芸舞妓になってからも毎月、毎週のように海外の方をおもてなしするお座敷があったことです。

このコラムを書くことがきっかけとなり、8年分の手帳を見かえすことができました。一気に花街での思い出がよみがえりました。毎日どこかのお座敷へ行き、あらためて8年間にどれだけの方に呼んでいただいていたかがわかりました。自分ががんばったということよりも、すごく感謝の気持ちでいっぱいです。

海外からのお客様がたくさんいらっしゃったなかでも、私の渡米を決定づけたお座敷がありました。海外の会社から代表ご夫妻と社員の通訳の方がいらっしゃいました。花街の文化を日本語で説明したものを通訳してもらいました。代表ご夫妻が花街に興味を持って下さり、何度も質問していただいたお返事を私自身がお伝えすることができればなんてすばらしいことだろうと思いました。

ご夫妻が次回京都観光をする時のために、おすすめの場所を書き出してお渡しました。次の年、ご夫妻は実際に観光をされたようでお茶屋さんから私宛のお礼の手紙を頂戴しました。渡米後、「Hospitality and Tourism(ホスピタリティー&ツーリズム)」という「観光学」についての学部を専攻することになったきっかけのできごととなりました。

「その後、引退についての相談をされた時のみなさんの反応はいかがでしたか?」

年季をあけると自前になるかの選択をする時期があり、私は引退後、渡米することを決めました。年季とは置家でお世話になる期間のことを指し、自前とは置家から独立し、衣食住からすべてのことを自分ですることをいいます。年季を明けた人は自前になって続けるか、私のように引退をしたりします。

あるお茶屋のお母さんのところへ渡米の話をしに行った時のことです。今でこそいつも気にかけていただき、ニューヨークへ何度か会いにも来て下さったので笑って話せますが、これまでに経験したことのないほど怒られ、大反対をされたことを思い出します。うろ覚えですがお母さんが怒った拍子に飲み物だったか、食べ物だったか、はたまた机だったのかわすれましたが、確かに何かがひっくり返ったことだけは覚えています。今もその時のことを思い出すと震えますね(笑)。たいへんかわいがっていただいたので、申し訳ない気持ちとともにその時、いつか胸を張ってお母さんに会いに行くことを目標にしようと思いました。渡米して語学学校だけではなく、高校卒業資格を取り、大学に行くという道を設定しました。将来、絶対に卒業証書を持ってお母さんに報告することを心に誓いました。

相談したお茶屋、置家のお母さん方は私のことを真剣に考え、真摯に想いを話してくれました。驚いたことに置家のお母さんは「心配ではあるし手放しではもちろん喜べないけれど、海外に行くということはスキルを身につけることになるので、良いのではないか。ひなちゃんに向いているのではないか。」そして「年季が明けているので、一度辞めても戻ることもできる。私が許可する。」と言ってくれました。置家のお母さんは私の性格を良く分かってのことだったと思います。花街へ戻ることもできる、と言われますと私は絶対に自分が納得するまでは簡単に戻らないと思いました。

早速に置家のお母さんは京都在住だった現代美術家の先生のアトリエに私を連れて行って下さり、先生はご自身のニューヨーク経験をお話しして下さいました。そして「困った時はニューヨーク在住のこの方に頼りなさい」と、先生が信頼されている方までご紹介いただきました。私は、困ったことがないようにすることが、こんなにもいろいろと考えて下さる置家のお母さんや、先生に対してできることだと思ったのを覚えています。

引退する時に置家のお母さんに「一緒に銀行に行く。」と言われ、ついてまいりましたら、通帳が用意されていました。「これが今まで貯めていた分だ。」と渡されました。厳しいと有名な置家さんでしたが、私が留学できたのも先立つものの用意をしていてくれたおかげです。

姉妹関係の芸妓の姉さんは、渡米前の下見のためにニューヨークへ行く際に「みなが心配しているし、私も観光ができる。」と一緒に行くことを提案して下さいました。気を遣わないように気軽な感じで言って下さいました。私は姉さんにもニューヨークを見てもらえる、一緒に旅行ができるのだ、と喜んでいました。実際はお茶屋、置家のお母さん方の心配も背負って一緒に下見旅行をして下さった上に、今後海外での生活に出費もするだろうと、旅費も全て姉さんが出して下さいました。姉さんが一緒にニューヨークをまわってくれたことがどんなに心強かったかわかりません。

舞妓になるために10代で上京した時に「身を切られる思い」と話していた両親は相談した時に「やりたいことがみつかったのなら羽ばたきなさい。花街でしっかりと年季を明けたのだから、あなたの今後を信用している」と後押しをしてくれました。

妹と一緒に

渡米して8年が経ち、両親の複雑だった思いを聞くことがありました。
舞妓になるために家を出た時に「もう一緒に暮らすことは無い」と覚悟をしてはいたものの、引退してアメリカなんて遠いところへ行ってしまったら「本当にもう二度と一緒に暮らすことはできない…と思ったけれど口にはできなかった」と、さみしさと期待の入り混じった複雑な気持ちだったと話してくれました。

「渡米場所にニューヨークを選ばれた理由と渡米後の生活はいかがでしたか?」

海外で生活することが今後の自分にどのような影響を与えるのか、自分自身が挑戦しながら感じたいと思いました。それなら一番刺激があると聞いている有名なニューヨークにしよう!と決定しました。

もうひとつ知りたかったことは、世界中から人が集まり世界で一番文化が混在している場所で、日本や京都、花街がどのように捉えられているか、日本とはどう違うのか、同じものは何なのかを知りたかったことがあります。

留学をして2日間くらいは怖くてホテルから出られませんでした。はじめてのことだらけで言葉が通じないことの不安もありましたが、今までの生活は花街や置家が敷いてくれたレールの上で守られながら生きてきた、ということをひしひしと感じました。

今後は全て自分で決めなければいけないものだと、しっかりしなければいけないと思った3日目にザ・アメリカという洗礼がありました。

手続きのために学校の留学センターへ行くと、机の上に足を上げてサンドイッチを食べている女性の人がいました。休憩中だ、と思い気を遣って帰ろうとすると、「入って。」と言って足をおろし、ニコニコしながら「今、私は休憩中でくつろいでいるからあと30分したら戻ってきて。」と言われました。

その後の生活で机に足を上げている人は見かけていないので、たまたまだったと思うのですが、それよりも、ほんの数秒で状況と私に対する指示を聞いてポカーンとしたことを覚えています。これがアメリカなのか!と思いました。

その後の生活では、相手の意見聞き、自分の主張をすることや、明確な言い方をしないと物事がスムーズにいかないという経験をたくさんしました。はっきりした言い方は相手が気を遣うのではという思いや、全て言わず汲み取ることは、日本人が持つ文化や美徳とするすばらしいことだと思います。

花街と海外での生活を経験したなかで役立っていることは、相手の話を聞き自分の意見も言った上で、気持ちを汲み取りつつ提案することに変な気負いなく挑戦できるようになったことです。

最初は語学学校に通いながら大検が取れる学校に通っていました。その後、アメリカの大検を取り日本でいう2年制の短大へ入学しました。「Hospitality and Tourism(ホスピタリティー&ツーリズム)」という「観光学」を専攻しました。2年制を卒業すると4年制へ編入する人が多く、旅行企画やコンシェルジュについて編入後は勉強したいと思っておりました。

「ニューヨークでの生活で茜先生に影響を与えた出会いはありましたか?」

できるだけ早く現地の生活に慣れるために、アメリカ人家庭に2年ほどお世話になりました。ハドソンリバーが見える高台の家で、不安ながらも結果大満喫したニューヨークでの学生生活がはじまりました。いろいろな場所へ本当の子供のように連れて行ってくれ、引っ越す時は涙したものです。ホームステイ先を出るときには感謝の気持ちを伝えたくて、次に入る学生がそのままで使えるよう、入った時以上に綺麗にして手紙を添えて後にしました。そのことをホストファミリーは後にも先にもあなたぐらいだと言われましたが、自分の使った場所は次の人が使うことを考えて綺麗にする、出張先のホテルでも出るときは綺麗にして退出する、などは、自然と花街で身についたことだったと思います。

引退後どこに行ってもこれはしないと決めていたことがありました。それは自ら花街のお客さんや芸舞妓、同期にも連絡をしないということでした。置家のお母さんから「連絡をすることで甘えがでる。花街とは違う生活を自ら選んだのだから、自分の生活の基準で簡単に連絡ができるとは思ってはいけない。」と言われていました。それもあって、初期は、困った時に連絡ができる方以外に知り合いや友人のほぼいない生活を一からはじめました。お茶屋、置家のお母さんからご紹介いただいた場合にのみ、人にお会いすることはありました。

2年ほど経った頃、引退の相談をした時に大反対だったお茶屋のお母さんから連絡がありました。「ぜひ会ってお世話になりなさい。」と紹介して下さったご夫婦にお会いし、奥様がぜひと言って下さったことでお世話になることが決まりました。

この出会いが私の考え方を変えるきっかけとなり、特に奥様はニューヨークで私に最も影響を与えて下さった方となりました。

日本人が日本のことを話せないのはダメだ、アメリカで生活をしていくことを考えるなら、今まで以上にプロフェッショナルな分野を勉強して実際にプロとして仕事をしてなければいけない、と身を持って私に教えてくれていました。奥様自身もプロとして仕事をしながら、趣味でピアノ・生け花・空手のお稽古、さらには日本から毎月、伝統芸能・文学雑誌や小説など多くの本を取り寄せて勉強されていました。

なんといっても、髪をいつも綺麗にまとめて、洋服も着物もため息の出るほど素敵な装いでした。最高の自分になるために最上の演出をご自身でされていました。

装いのすべてにこだわりがあり、洋服の場合ですと、年代の違うものを組み合わせたり、少し手を加えることでエレガントなると、肩や袖の形、裾を数センチ短く直したりされていました。会場の雰囲気やその時のご自身のテーマから色を決め、装飾品や靴、バックのコーディネートも前日までに済ませて、それは完ぺきな姿でおでかけされていたなぁ…と、今でも真似をしますし憧れです。

その方は、「アティック」と呼ばれる屋根裏に着物専用のスペースを作り保管されていました。

何よりも素敵だと思ったことは、洋服も着物も同じように大事にされていたこと。毎日楽しそうに、洋服や着物を直す次の計画を話してくださることでした。東京の老舗呉服屋さんのお話をたくさん聞かせてもらえたことは、大変刺激になりました。

そして、あなたのためになるからと、関係先のパーティーや社交の場に良く連れて行って下さいました。私も興味がありたくさん質問しましたし、奥様も仕事のノウハウを惜しみなく話して下さいました。私が着物の仕事をしていなければ、奥様がされている分野の仕事をしていたか、旅行関係の仕事をしていたと思います。

「短大卒業後に起業されていますが、どのような経緯がありましたか?」

ニューヨークで着付け教室をはじめる

多くの学生は、2年制の短大を終えると4年制に編入します。私自身もそれを目標として決めておりましたが、実際は卒業後に起業しました。なぜなら学生時代に着付け教室の依頼や、着物に関するお願いが大変多くあったからです。
語学学校と大検取得の同時進行から短大への入学、卒業までに3年ほどかかりました。その間はボランティアの活動が多く、着付けや着物に関することは、知っている範囲で答える程度でした。

そんななか、在ニューヨーク大使夫人がいらっしゃるという会で「着付け教室をしてもらえないか?」という依頼がきました。人に教えたこともありませんし、今の知識でみなさんが満足するはずもなく、本当に大変悩みました。チャンスの神様がいたのかはわかりません。何かの役に立つと書きためておいたノートや手帳が数冊あり、そのなかには着付けや着物に関する走り書きを多くしていました。それを文字起こしして資料にし、今持っている知識がどこまでなのかをまず自ら把握しました。

私にお声がかかるということは何かしら違ったことを知りたいと察しますし、花街と一般の方々の着物、着付けの常識と違いは何なのかと今一度出し、着物に関する本を読みあさり勉強をしました。

これがきっかけで、はじめて教室を開くことができました。今思えばひどいものですが、その後もボランティアを多く行い、手軽な着付け教室をすることで自分の講師スキルを上げる努力をしました。時間はかかりましたが着実に自信をつけて、後に起業し『京風きつけ教室』という名前にて開校するに至りました。着物を綺麗に着たい方が多く、悉皆(しっかい=お手入れ)に困っている方がたくさんいらっしゃいました。

ニューヨークでの活動の様子

上の写真は、ニューヨーク時代に活動した写真の一部です。着付けや派遣、着付け教室、レクチャー、展示会、着物ショーなどをさせていただきました。人前でデモンストレーションをしたことは大変心に残っています。BERGDORF GOODMAN(バーグドーフ)という老舗百貨店に呼んでいただき、衣装も京都から取り寄せてのイベントでした。また、VOGUE US(ヴォーグアメリカ)から連絡があり、歌手の方が着物を着るということでお仕事をさせていただいたりもしました。ウェブサイトと写真を見てご紹介なしで連絡をいただきましたので、これもアメリカだと思った記憶に残るできごとでした。

学生の間は学生ビザですので、学校内での決められたバイト以外では稼ぐことはできません。いくら置家のお母さんが貯めていてくれたものがあったとしても、減っていくばかりでした。税金などが引かれると一時間数ドルという、学校内のバイトをしていました。

卒業すると、一年間働いても良いという「OPT」という制度がありました。多くはそのまま就職するか、4年制に行かないのであれば日本に帰国という形になります。簡単に言いますとパートナーとして起業し、最初は報酬なしのボランティアからOPT制度で会社へ入り一年後に就職したという形でした。その後「グリーンカード」という永住権が取れましたので永住のつもりでおりましたが、家族の関係で8年のアメリカ生活を終え、帰国しました。

「ニューヨークで起業し呉服業をされていたとお聞きしました。どのようなことをされていましたか?」

得意なこと、好きなことで、無理をせず自然発生的に起業したことが良かったと思います。まずは、着物を綺麗に着たいという方々のお悩み解決のために教室をはじめました。その後、お客様が海外へ大切に持ってきた着物の悉皆の相談を受けるようになりました。自分の着物を悉皆屋さんへ出していたとはいえ、仕立てができるわけではありませんでしたので、一から勉強し直してお客様に提案できるようになってから悉皆屋さんに相談し、契約をしてもらうように話を進めました。年に数回、着物を集めて丸洗いや染め抜き・直し・染め替え・仕立て替えなど、悉皆に関することはすべてお受けしておりました。恥をかくことも多かったですが、実験・観察・研究の繰り返しをする機会をお客様にいただいたと思っています。

日本へ一時帰国した時は京都にあいさつに行きました。その時に、昔からお世話になっているお客様にお茶屋さんでお会いました。その方は呉服屋さんの会長で、現在の状況を話しましたら、展示会をしたらどうかとアイデアをいただき着物問屋、小物問屋を紹介してもらいました。

ご紹介いただいた問屋さんは海外への展開をはじめられた頃で、相談に行った時には「今井さん、ぜひやってください。」と背中を押してくださいました。また別の問屋さんも、会長の紹介だからとすぐに担当の方をつけて下さいました(何のご縁か…その方は今京都きもの市場さんの商品課課長をされていらっしゃいます)。何も分からない私に、みなさん嫌な顔ひとつせず、本当に良くしてくださいました。

自宅の一部屋の、3畳で家具と数反だけを置いた場所からはじめました。着付け教室以外は悉皆の注文をメインに受け付けるだけにしました。ウェブサイトを制作したいと思いましたが、なんでも費用がかかります。自分でウェブサイトを制作することを決めました。最低限の知識をつけてウェブサイト制作ビルダーを利用、いざ作ろうしても日本語にならない、消える、固まることが多く、何度作り直したか分かりません。

その経験を生かして、現在の教室ウェブサイトも自分で作りました。今となっては無駄なことはないと思えますね。

ニューヨークで展示会を行う

はじめてから一年くらいして、年に数回、場所を借りてニューヨークで展示会をすることになりました。悉皆をやっていたこともあって、展示会をしても問屋さんまかせではなく、仕立てのことを心配せずに開催できました。はじめての展示会は、会場や撞木や衣桁の模型まで作りシミュレーションを何度もしましたね。反物で見たいという方が多くいらっしゃったので、展示会をやってよかったと思います。また徐々に自分好みの仕入れができるようになりました。お客様は在米の日本人の方が多いのですが、ニューヨークという土地柄、茶道をされているアメリカ人の方、また配偶者が日本人という方もいらっしゃいました。

「ニューヨークでも、貴重な出会いを大切にしていらっしゃる茜先生に学ぶところが多いです。次回はニューヨークから東京へ帰国して今に繋がるお話をお聞きいたします。」

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