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『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』 東京都美術館  「きものでミュージアム」vol.38

『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』 東京都美術館 「きものでミュージアム」vol.38

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田中一村の全貌を紹介する大回顧展『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』が東京都美術館で開催中!神童と称された幼少期から晩年の奄美で描いた作品まで300点以上の作品は圧巻で、魂を揺さぶられます!お見逃しなく!!

2024.07.25

よみもの

『徳川美術館展 尾張徳川家の至宝』サントリー美術館 「きものでミュージアム」vol.37

田中一村の作品が東京都美術館に集結!

今回は、東京都美術館で開催中の『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』をご紹介します。

※本コラム内の美術作品の写真につきまして、各美術館プレスより撮影および掲載の許諾を得て使用しております。

田中一村展エントランス

田中一村展エントランス

彫刻師の父のもと、栃木県に生まれた田中一村(1908-1977)。幼少期から画才を発揮し、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学するもわずか2ヶ月で退学、若き南画家として活動します。

30歳で千葉に移り住んだ後も、農作業や内職をしながら絵を描き続けました。

39歳の時《白い花》(1947)が青龍展で初入選。しかしその後、日展や院展などへの出品はすべて落選に終わりました。

《白い花》と《秋晴》が並ぶ

《白い花》(正面右)と《秋晴》(正面左)が並ぶ展示風景

50歳で奄美に移住したことが、彼の作品に新たな風を吹き込みました。

大島紬の染色工として働きながら奄美の自然や風景を描いた作品は、美しさと独自性で多くの人々の心を揺さぶります。

一村は69歳で亡くなるまで、残念ながら評価されることはありませんでした。没後、1979年に奄美で開催された遺作展、1984年にNHK『日曜美術館』で特集されたことをきっかけに一気に人気と評価が高まりました。

《アダンの海辺》

右:《アダンの海辺》 昭和44年(1969) 個人蔵

本展では、300点を超える作品を東京時代、千葉時代、奄美大島時代と3章で紹介する大回顧展です。未完の大作や、近年発見された初公開作品も展示されます。代表作を網羅する展示は圧巻。一村の魂の発露が感じられます。

※田中一村は何度か画号を変えていますが、ここでは全時代を通じて「田中一村」と表記します。

アンバサダーと音声ガイドは小泉孝太郎さん

アンバサダーと音声ガイドの小泉孝太郎さん

アンバサダーと音声ガイドの小泉孝太郎さん

本展のアンバサダーと音声ガイドナビゲーターを務める俳優・小泉孝太郎さんが内覧会に登壇しました。

曽祖父の小泉又次郎氏(政治家)が田中一村の後援会長を務め、幼いころから画家・田中一村のことを家族から聞いていたそう。不思議なご縁ですね。

アンバサダーと音声ガイドの小泉孝太郎さん後ろ姿

当日の小泉さんの衣裳は、特別に誂えた《不喰芋と蘇鐵》をモチーフにした大島紬の着物と羽織。とてもお似合いでした。

東京時代ー神童と呼ばれた幼少期、その後若き南画家としての活躍

会場エントランス

会場に入るとまず、一村の幼少期の作品が展示されています。

最初の1点《紅葉にるりかけす/雀》は、数え8歳(満6〜7歳)の作品。その確かな画力と才能に驚きます。神童と呼ばれ、周囲から将来を期待されました。

《紅葉にるりかけす/雀》

《紅葉にるりかけす/雀》 大正4年(1915) 栃木県立美術館蔵

《池亭聞蛙》は、近年発見され本展で初公開となる14歳の時の作品です。

《池亭聞蛙》

右:《池亭聞蛙》 大正11年(1922)個人蔵

この年齢ですでに山水画を学び、柳の葉の動きや水面のきらめきの描写に才能を感じます。

その後、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科にストレートで入学するも、わずか2ヶ月で退学してしまいます。同級生には後に名をはせる東山魁夷や橋本明治がいました。

退学の理由は家事都合とされますが、学校の形式的な教育に満足しなかったとも言われています。

また、すでに若き南画家として活動していた一村。同年の冬には絵の領布会も企画され、その準備に多忙を極め学業に専念できなかったとも。

10代後半の一村の作品が並ぶ

10代後半の一村の作品が並ぶ

《蘭竹図/「富貴図」衝立》は、片面金地に水墨のみの蘭竹図、もう片面には鮮やかな色彩で「富貴図」が描かれた両面の衝立です。異なる画材を描き分け非凡なものを感じます。

《蘭竹図/「富貴図」衝立》

《蘭竹図/「富貴図」衝立》 昭和4年(1929)2月/昭和4年(1929)3月 個人蔵

いずれも衝立からあふれるように描かれ、後の奄美の作品に通ずるものを感じます。

木彫の作品

木彫の作品も並ぶ

一村の父は木彫家で、父に学び彫刻も手がけ生活の助けとしました。帯留や根付、木魚もあり、細工の細かさに驚きます。

《椿図屏風》は、金地に右隻には鮮やかな椿をいっぱいに描き、左隻は金地無地のまま。この作品は2013年に発見された「空白期」とされていた20代半ばの作品です。

《椿図屏風》 昭和6年(1931) 千葉市美術館蔵

《椿図屏風》 昭和6年(1931) 千葉市美術館蔵

左隻は意図的に無地にしたのか、それとも何か描こうとしてやめたのか……わかっていません。

空白期の作品は、他にも旅先でのスケッチなどが見出されており、この時期の一村の動向については再考されています。

この時期は一村の転換期で実験的な作品も見受けられます。

《秋色》と同じタイトルの作品が2点あります。その色彩はそれまでの作品とは少し異なり、とても惹かれるものがありました。

《秋色》、《秋色》

左:《秋色》 1930年代半ば 田中一村記念美術館蔵、右:《秋色》 昭和10年代 田中一村記念美術館蔵

千葉時代ー戦前から戦後の歩み

昭和10年(1935)、一村が27歳の時に父が亡くなり、昭和13年(1938)母方の親戚の川村家を頼って千葉市に移住しました。それから戦中、戦後と約20年間、野菜を作り、鳥を飼い、内職もこなしながら絵を描き続けました。

左:《秋晴》 昭和23年(1948)9月 田中一村記念美術館蔵、右:《白い花》 昭和22年(1947)9月 田中一村記念美術館蔵

左:《秋晴》 昭和23年(1948)9月 田中一村記念美術館蔵、右:《白い花》 昭和22年(1947)9月 田中一村記念美術館蔵

昭和22年(1947)、川﨑龍子主催の青龍展に《白い花》を出品し初入選しました。公募展への応募は続けられましたが、結局中央画壇で入選したのはこの1作のみでした。

《白い花》は、ヤマボウシの白い花と竹、そこに鳥が1羽います。白と緑の色彩がみずみずしく、花は立体感を持って浮き出すように描かれ、構図も見事です。

一村はその翌年の青龍展に《秋晴》を出品しましたが落選してしまい、代わりに参考出品した《波》が入選という結果になりました。自信作の落選に怒った一村は入選を辞退し、龍子の元を去りました。

《秋晴》は、金地に農家の秋の風景が描かれた作品。家の横の木には大根が何本も干されています。金地に干された大根の白が浮かび上がり、少し不思議な感覚を呼び起こします。

左から《朱實紫實》 1950年代 株式会社ジャパンヘルス サミット蔵、《忍冬に尾長》 1950年代(昭和31年頃か) 個人蔵 、《白い花》 昭和30年(1955)春 栃木県立美術館蔵

左から《朱實紫實》 1950年代 株式会社ジャパンヘルス サミット蔵、《忍冬に尾長》 1950年代(昭和31年頃か) 個人蔵 、《白い花》 昭和30年(1955)春 栃木県立美術館蔵

右の絵は、入選作と同じタイトルの《白い花》。この頃、入選作を翻案した作品が何点か制作されました。

中央の《忍冬に尾長》にも白い花と鳥が描かれています。

忍冬の軽やかな花弁のせいか、さまざまな4羽の尾長の姿態のためか動きがあり、構図も計算され、光と影のバランスと色彩が美しいです。奄美時代の作品に通ずるものを感じました。

《薬草図天井画》 昭和30年(1955) やわらぎの郷聖徳太子殿蔵

《薬草図天井画》 昭和30年(1955) やわらぎの郷聖徳太子殿蔵

この時代には、まとまった作品を制作しています。

昭和30年(1955)46歳の頃、石川県羽咋郡『やわらぎの郷』の聖徳太子殿の天井画を現地に滞在もして丹念に制作しました。49区画に薬草49種類が描かれています。緑色を微妙に使い分ける技術も向上しました。

展示室の一角には、襖絵が並んでいます。

屏風が並び圧巻

屏風が並び圧巻

その中には、奄美行きの援助の意味も込めて支援者が依頼した一式があります。

松に紅白梅、四季の花……と、古来からの題材が描かれています。古典から学んだことに一村のオリジナリティが加味され、日本画家としての本領を発揮した大作と言えます。

《白梅図》(裏面:四季花譜図)襖 昭和33年(1958) 個人蔵 151 紅梅図 襖 紙本墨画着色/襖4面 昭和35年(1960) 個人蔵

右:《白梅図》(裏面:四季花譜図)襖 昭和33年(1958) 個人蔵、左:《紅梅図》 襖 昭和35年(1960) 個人蔵

《四季花譜図》

中:《四季花譜図》(裏面:白梅図) 昭和33年(1958) 個人蔵

《四季花譜図(裏面:松図)

《四季花譜図》(裏面:松図) 襖 昭和33年(1958) 個人蔵

一村が絵付けした名古屋帯や日傘も展示されていました。

一村が絵付けした名古屋帯や日傘

一村が絵付けした名古屋帯や日傘

当時の他の画家が描いたものより描き込みが多く、柄の出方も配慮が行き届いてデザイン性にも優れています。

こんな帯を締めてみたいですね。白地に繊細な絵が描かれた帯は、シンプルな柄付けの泥染め大島紬に合わせてみたいです。

昭和30年(1955)一村は九州・四国・紀州の旅に出て、南国の強い光や植物に触発されて生命力が強く感じられる絵を描き始めます。そしてこの旅の支援をしてくれた人々へ風景画を贈りました。

それらの絵は、南国の旅情が感じられ、千葉とは違う空気を感じたことが伝わってきます。

《ずしの花》

右:《ずしの花》 昭和30年(1955) 田中一村記念美術館蔵

50にして奄美へ移住

昭和33年(1958)12月、一村50歳の時、姉・喜美子を残し単身奄美に移りました。50という年齢で、見知らぬ土地に移住するということはどのようなことなのでしょう。

これを逃すと後がない、という不退転の決意だったのでしょうか。最後の望みをかけたのでしょう。

《海の幸》、《海老と熱帯魚》など

左:《海の幸》 昭和51年(1976)以前 株式会社ジャパンヘルス サミット蔵、中:《海老と熱帯魚》 昭和51年(1976)以前 田中一村記念美術館蔵、右:《富貴昌図》 昭和52年(1977) 株式会社ジャパンヘルス サミット蔵

一度千葉に帰りますが、昭和36年(1960)に奄美へ戻って大島紬工場で染織工として働き、制作費が蓄えられたら絵画に専念しました。昭和42年から45年までの3年間は絵に専念しています。

島を歩き自然をスケッチし、鳥が来るのを待ってはスケッチ、鮮魚店でも、南国の珍しい魚を見つけると細密にスケッチしていたよう。

《初夏の海に赤翡翠》

《初夏の海に赤翡翠》 昭和37年(1962)頃 田中一村記念美術館蔵

美しい自然に囲まれ、旧知の人もいない、雑音のない環境で絵に専念できたのは一村にとって素晴らしいことだったに違いありません。

大胆な構図、独特の遠近の表現、光溢れる色彩、丁寧に塗り重ねた岩絵の具の立体感。この間に多くの代表作を制作しました。

左:《桜躑躅に赤髭》

左:《桜躑躅に赤髭》 昭和40年代 田中一村記念美術館蔵

昭和49年(1961)1月、《アダンの海辺》と《不喰芋と蘇鐵(くわずいもとそてつ)》を指して「閻魔大王えの土産品」と手紙に記しました。

《不喰芋と蘇鐵》

右:《不喰芋と蘇鐵》 昭和48年(1973)以前 個人蔵

自分でも納得のいく作品を完成できたことは、何物にも代えがたいことだったでしょう。

最後に

鑑賞中

田中一村が好きで、今まで千葉市美術館や岡田美術館など関東地方で開催される展覧会には行きました。一村の絵に惹かれるとともに、田中一村は生前中央画壇からは認められず、奄美大島で不遇のうちに亡くなったと聞いたことも心に残っていたのです。

しかし、今展で生涯を通じて少なからず後援者や理解者がいて、支援されていたということがわかり少し安堵しました。

公募展に落選し続け中央画壇からは評価されず、生前に個展を開くことはかないませんでした。

左:《奄美の郷に褄紅蝶》

左:《奄美の郷に褄紅蝶》 昭和43年(1968)頃 田中一村記念美術館蔵

奄美時代の一村の作品は、光があふれ強烈なエネルギーを放っているのに、どこか寂寥感が漂います。それが胸を打ち涙を誘います。

そして「いつか東京で決着をつけたい」と生前語った一村。この回顧展で決着が付いたでしょうか。

画像では、岩絵の具を塗り重ねた立体感や岩絵の具のきらめき、微妙な色遣いなどが伝わりにくいかもしれません。ぜひ会場に足を運び、お近くで鑑賞してください。一村の魂と人生を感じることができるでしょう。

一村は”昭和の若冲”と言われたり、南国で独自の世界を開いたことから”日本のゴーギャン”、生前には評価されることなく没後評価されたことから”日本のゴッホ”と例えられることがあります。

他の何物でもない――田中一村は田中一村である。

私はそう思うのです。

東京展が終わり、作品たちが戻るころに一村が暮らした奄美を、そして田中一村記念美術館を訪れたいと思います。

この日の装い

この展覧会のために仕立てた、田中一村意匠の白大島紬と帯は大島紬美術館のもの。織で一村の意匠を表現するのは難しく、しかも白大島なので貴重なものです。

内覧会で小泉孝太郎さんがお召だった着物と羽織も、大島紬美術館が特別に誂えたものでした。

この日の装い
この日の装い
この日の装い
この日の装い

ミュージアムショップには、一村が作成した帯留のレプリカのマグネットとピンバッジがあります。金具をつけて帯留にできるかもと思いました。

グッズの一村の帯留

一村が作成した帯留のレプリカのマグネットがミュージアムショップに!

撮影/五十川満

今回ご紹介の展覧会情報

田中一村展ポスター画像

田中一村展 奄美の光 魂の絵画

東京都美術館 企画展示室
https://isson2024.exhn.jp/

日時:2024年9月19日(木)~12月1日(日)9:30~17:30、金曜日は9:30~20:00 ※入室は閉室の30分前まで

休室日:月曜日、10月15日(火)、11月5日(火) ※ただし、10月14日(月・祝)、11月4日(月・休)は開室

※土曜・日曜・祝日及び11月26日(火)以降は日時指定予約制(当日空きがあれば入場可)11月22日(金)までの平日は日時指定予約不要です。

※詳細は展覧会公式サイトをご覧ください。

その他、おすすめの美術展

※日時など変更になる場合があります。おでかけ前に公式サイトなどで最新情報を確認してください。

出光美術館ポスター

出光美術館の軌跡 ここから、さきへ IV 「物、ものを呼ぶ―伴大納言絵巻から若冲へ

出光美術館
https://idemitsu-museum.or.jp/

日時:2024年9月7日(土)〜10月20日(日) 10:00〜17:00、毎週金曜日は19:00まで
※入館は閉館の30分前まで

休館日:月曜日(10月14日は開館)、10月15日 

静嘉堂文庫美術館ポスター

特別展 眼福―大名家旧蔵、静嘉堂茶道具の粋

静嘉堂@丸の内(明治生命館1階)
https://www.seikado.or.jp/

日時:2024年9月10日(火)~11月4日(月・振休)
10:00〜17:00 (土曜日は18:00閉館、第4水曜日 9月25日、10月23日は20:00閉館)
※入館は閉館の30分前まで

休館日:月曜日(ただし10月14日・11月4日は開館し翌火曜休館予定)
※10月28日(月)はトークフリーデー(関連イベント欄参照)として開館
休館日:月曜日、11月16日(火)※展示替えのため

山種美術館ポスター

【特別展】没後50年記念 福田平八郎×琳派

山種美術館
https://www.yamatane-museum.jp/exh/2024/FukudaHeihachiro.html/

日時:2024年9月29日(日)~12月8日(日)
午前10時~午後5時 ※入館は閉館の30分前まで

休館日:月曜日 ※10/14(月・祝)、11/4(月・振休)は開館、10/15(火)、11/5(火)は休館

◆ 読者プレゼント ◆

田中一村展ポスター画像

さて、恒例の招待券プレゼント!

今回は『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』の東京都美術館の招待券を5組10名の方にプレゼント!
ぜひ、きものでお出かけくださいね!

下記リンクより、お使いのSNS経由にてご応募くださいませ。

◆インスタグラム
https://www.instagram.com/kimonoichiba/
◆X
https://x.com/Kimono_ichiba

※応募期間:2024年10月16日(水)まで

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