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日本舞踊との運命の出会い、情熱。 「今井茜 着ものがたり」 vol.1

日本舞踊との出会い 「今井茜 着ものがたり ―京都・ニューヨーク・東京」 vol.1

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着付けレッスン、ヘアレクチャー、着物のデザイン企画と活躍の幅を広げる今井茜さん。 日舞との出会いから京都祇園の人気芸妓としての生活、単身渡米したニューヨークでの着付け教室開講から帰国し現在に至るまで… 「心身ともに美しい女性」になるまでの歩みを紐といてまいります。

 着付けのレッスン、ヘアレクチャー等の講師としての活動の他にも、着物、帯、小物類などのデザイン企画もしている今井茜先生。
「心身共に美しい女性」になるまでの歩みを紐といて参ります。

「茜先生は香川県のご出身だそうですが、小さい頃はどんなお子さんでしたか?」

香川県でごく普通の家庭の長女として生まれまして、沢山の親族がいる環境で育ちました。お転婆な子だったみたいで、最初に触れた着物は祖父が作ってくれた二枚の産着だと聞いています。

二歳の頃に親戚に連れて貰った藤間流のお舞台で、自分も舞台に上がりたい!この先生に習いたい!と決めていたそうです。以来…高校に上がる直前まで、その時好きになった先生に日本舞踊を習う事になりお世話になりました。

母は小学生の時に母親を亡くしましたので、自分のしたかった沢山の事を私にも家族にも一生懸命にしてくれました。色々なお稽古をさせて貰って今があります。本当に感謝しています!周りの親族も舞台や呉服屋さんなど色々な所に連れて行ってくれました。子供の頃に沢山の経験をさせて貰えて、親族皆に育てて貰ったという感じですね。

「幼い頃から着物に親しまれていたようですが、小学生の頃に体験した事で後に繋がるエピソードはありますか?」

小学校に上がってからは毎日お休みがないくらい習い事に通っていました。その中でも日舞のお稽古の時のワクワクは今も忘れられません。扇子に日傘、藤や枝物などの小道具をお師匠さんが準備していると、次回は私が使えるのかなとドキドキしていました。子供の頃から着物周りの和装道具が大好きですね。今も研究対象です(笑)。

藤間流の大きい舞台に出ることになり、年長の妹が芸者役、私が男役の鳶頭で神田祭を踊ることになりました。どうしても女役がしたくて、寿司屋のお里でお引きずりを着させて貰いました。子供の頃から女性らしくなりたい、というテーマは変わっていない様に思います。

小学校三年生の頃に藤間流の姉弟子が先斗町さんの舞妓さんになり、鴨川をどりを観る機会がありました。印象に残っているシーンがあります。パッと暗転して暗がりから見えて来たのは薄っすらと浮かび上がる淡い白ピンクのお顔。そして白に淡い藤色が相まった、陶器の様な。白桃の様な。なんとも言えない美しさの衣装の組合せに衝撃を受けました。その情景は今も私が着物を着る毎に思い出して、憧れの姿になる為にまた研究を重ねたいと思うきっかけになっています。

いつも私が言っているフレーズがあります。「私は白桃の様になりたいんです。」

白桃の様になりたい。というのは舞台で芸舞妓さんを観た時の衝撃と実際に沢山の綺麗なお姉さん方を目の当たりにした経験から出た言葉です。内から表れる瑞々しさとふんわりと香り立つようなやさしさを表現したいという気持ちに繋がっています。

鴨川をどりを観た事がきっかけで「私もいつかこの舞台に立って踊るかもしれない」と、踊りのお稽古の先にあるものとして頭に残りました。舞台やパンフレットを見て何故こんなに美しいのかと…幼心に焼きついて永遠の憧れとなりました。この時のパンフレットは今でも大切に持っています。

子供の頃に影響を受けた事の中に今見ても配色が綺麗なアニメがあります。
大好きだったのが”あんみつ姫”と”クリィミーマミ”のシリーズです(笑)。
お姫様のお引きずりの着物にハートの柄や簪にキラキラの星が付いていたり、クリィミーマミの髪の色だったり、洋服の配色。今でも思い出すとワクワクします。
今思うと、着物の色や柄を考える楽しさに気づいていたのでしょうか?

また、今に繋がる経験として思い出しますのは学校行事で日舞を披露をする事が有りました。学校に踊りの先生はいなかったので、私が友人に足の運びや扇子の使い方などを伝える機会がありました。”人に伝える、教える”という事が楽しいと思えた素晴らしい経験となりました。

「幼少期は毎日が楽しかったと話される茜先生ですが、思春期の先生はいかがでしたか?」

中学に入りましても毎日が本当に楽しく、充実した日々を過ごしておりました。
ある日…師事していた藤間流のお師匠さんがお亡くなりになりました。あれだけ打ち込んでいた日本舞踊を私は辞めてしまいました。どうしてもお亡くなりになったお師匠さんでないと続ける気持ちになれなかったのです…。この出来事は私の大きな転機となりました。

それからは学校と塾通いの毎日となり燃え尽きた感じで、着物を着て自己表現できる機会が無くなっていました。今思うと、私が経験した踊りのお師匠さんとの出会いはとても貴重で稀な事だったのです。

現在教室を主宰するにあたり、この時の経験が凄く役に立っています。
『選ばれる教室、人でありたい』
生徒様は数あるお教室から選び、一歩踏み出して習いに来て下さっています。私自身が日々研究する事、そして充実した教室内容を大事にしたいという思いに繋がっています。

中学在学中の経験でもう一つ今に繋がる経験があります。大学付属でしたので試験的な授業がよくありました。モジュール学習というもので100分間の授業で自分の興味のある物を研究するといった授業です。私のテーマはもちろん『着物』でした。
着物に関して様々な資料を調べ、着物の生地の織、染、帯、小物に至る全ての事に興味を持ちました。着物の事を知らない人に自分が研究した事を理解してもらう難しさを学ぶ貴重な体験となりました。

また、地元は讃岐漆器が有名でしたのでお盆に彫刻をする授業もありました。一からデザインを考えて紫陽花の花を彫ったお盆を作りました。この頃から工藝にも興味が高まり、工藝を勉強する道もあるのかな。と思ったりしていました。

幼、小、中が大学の附属校だったので、高校は受験しなければなりませんでした。受験後、自分でもやるだけの事はやり切った感はありましたが、踊りに関しては辞めたくて辞めた訳ではないと…踊りに対する情熱は消えなかったです。

やはり自分は着物やお引きずりを着て踊り、自己表現したいと…ふつふつと湧き上がってきて止まらなくなり両親に話しました。最初、折角入学したのだからと両親は反対しまたが最後には理解してくれました。父からは「やるからにはとことんやりなさい!帰るところはない。」と言われました。そして、両親の知り合いの紹介で京都祇園甲部の置屋さんに面接に行くことが決まりました。

「その後ご両親と面接へ行かれたのですね。面接で重要視された事はありましたか?」

最初に聞かれたのは「お稽古はしといやしたか?」です。
お稽古事の有無や成績表の出席日数は重要だったようです。お休みしない体力、気力。芸舞妓は芸を身に付ける為に毎日お稽古を続け、地道な努力をしなければなりません。その根気があるのかを見極めていたのかもしれませんね。最近置屋さんのお母さんに聞いたところでは顔の良し悪しではなく「愛嬌」が大事だったようです。

面接をして頂き一度自宅へ戻って、1週間だったか10日だったか。
「すぐにおいない(いらっしゃい)」となりまして…。もう、お友達とのお別れやらなんやら(笑)一人で京都へ向かいますので家族、友人の見送りは地元の駅まででした。瀬戸の花嫁がホームに流れていました…。涙

「実家を離れて知らない土地へ向かう…
十代の茜先生は大きな不安と踊りが踊れる期待とでいっぱいだったんですね。
次回は1人電車を乗り継ぎ京都へ上洛、舞妓さんになるための"仕込みさん"から舞妓さんになるまでのエピソードをお聞きします。」

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